■はじめに

上野地域は、日本の中部地方、静岡県東部、富士宮やきそばでも著名になった富士宮市西部の丘陵地の一体のエリアです。写真にあるとおり、稲作・畑作などがさかんで、江戸時代からの酒蔵も2社あり(その後朝霧高原へ一社は移転)、風光明媚な風景を色々見ることができます。

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東京の上野ではありません(笑)(静岡から東京に出て「上野から来た」と言うとよく間違われます)また、三重県の伊賀上野地域ともまた異なります。当サイトは富士山の上野、「富士上野」を提案します。

上野の場所

世界の富士上野・世界の富士宮市

小を知るには大から。ということで、世界の上野、世界の富士宮市から見て行きましょう。

世界の上野

・・・少々ワイドに行き過ぎた感もありますが、感覚でしっかりつかむことはとても大事なことです。ちなみにこの富士宮から、2011年から2012年にかけ富士宮やきそばのPR団がニューヨーク、シアトル、香港、タイ、ローマに出張し、世界に日本のソウルフードの伝道師として行動しました。(ちなみに世界展開時は、富士宮やきそばではなく、Mt.Fuji yakisoba すなわち富士山やきそばの呼称にした模様である)富士宮やきそば・Mt.Fuji Yakisobaの活躍は、世界の富士宮ここにあり、と、勇気と元気をもらえる歴史的な事柄となりました。

少しミニマムに。アジアの上野、アジアの富士宮市に絞り込みます。

アジアの上野

上野のある富士宮市は、北方領土、沖縄も含めると、実に、日本のど真ん中に位置している事がわかります。そのどセンターに世界文化遺産「富士山」が鎮座しております。まさに、日本の中心でもあり、日本の重心とも言える場所であります。

さらに、絞り込んでみましょう。

日本の中部地方の富士上野、富士宮

日本の中部地方(関東地方に属することもある)、静岡県の東部に位置していることがわかります。古代から、富士山を仰ぐこの地域は、古来から、様々な皇族、武家、貴族など、様々な時代の有力者が訪れた記録が残っています。東海道蒲原宿、東海道吉原宿からは少し北上した位置にあるのですが、富士山本宮浅間大社に参詣する方が多くありました。ちなみに、富士宮市の最高地点は富士山剣ヶ峰で標高3776メートル、最低地点は、富士宮市山本地区で標高35メートル、標高差が3,741メートルで日本一標高差のあるまちでもあります。

中部地方の上野

富士宮の中の上野

はい、そして、上野地域です。JR身延線に富士宮駅前からおよそ8km前後に位置しており、車で移動しても20分前後と、非常にアクセスがしやすくなっています。また、朝霧高原へ抜けるにも20分前後、明治・大正・昭和初期などは特に、富士宮地域の北部への街道であったり、大石寺、北山本門寺、西山本門寺など様々な寺社参詣のハブとしての機能をも備える要所になっていました。上野地域に様々な飲食店や映画館、芝居小屋、娯楽施設があったという話も聞きます。(その後、どんどん東に、東に、新しいバイパスが段階的に出来ています)

上野地区の標高は馬見塚あたりで220メートル~、下条の上野小学校あたりで300メートル程度、上条大石寺の奉安堂あたりで350メートル程度、精進川上野中学校あたりで315メートル程度、となっていますので、平均標高300メートル程度です。

上野

標高については、富士宮市が刊行する社会科教本に、わかりやすい略図がありましたので、引用します。

イメージ的に非常にわかりやすくなっています。

■上野とは

そんな上野地域は、富士宮市西部の丘陵地にあり、中世は「駿河国上野郷」と呼ばれていました。江戸時代後半~明治時代前半は下条村、上条村、馬見塚村、精進川村と、4つの村に分かれていましたが、明治22年の町村制の施行により4村が合併し、富士郡上野村が成立しました。当時の村名は、そのまま住所表記としてとして現在も残っています。

  • 富士宮市下条
  • 富士宮市上条
  • 富士宮市精進川
  • 富士宮市馬見塚

上野四ヶ村

昭和33年に富士宮市との合併後は、自治体としての「上野」ではなく、富士宮市の行政区としての位置づけになりました。

しかし、意外なことに、上野地域を流れる川の多くは人口の川・堀です。千居丘陵という丘陵地帯で、標高が200メートルから300メートル余となっており、古代から水利面では非常に苦労が多かったようですが、芝川から取水した大堰用水はじめ多くの水系が造られています。

混沌を乗り越えて

日蓮正宗総本山、大石寺を擁する上野地区は多くの参拝客でにぎわい、門前町の様相で経済的にも発展を遂げ、商業者も多く集いました。

この参拝に対応できるよう、JR身延線富士宮駅には団体専用のホームが作られたり、JR東海道線富士駅において、東京方面からスイッチバックせずに身延線に入れるよう、1969年に配線変更(東回りから西回りに)も行われました。

東回りの路線跡は富士緑道となっている

身延線・旧本市場駅。

身延線・旧本市場駅。

ところが、1980年代から1990年代にかけて徐々に深刻化した大石寺と、同寺の最大規模の信徒団体でもあった宗教団体・創価学会との確執(1991年に断絶)により、混迷を極めた時期もありました。宗教戦争、政争のまち富士宮と言われた時代を象徴するような地域のひとつともいえ、暗い影を落とすことにもなりました。ここ近年(2000年代後半)は大きな騒動もなく平穏な日々となっているようです。

しかし、その他にも、富士宮は社会問題・犯罪事件にもなったオウム真理教問題、2010年代に入ってからの白糸の滝近辺で新興宗教の用地取得問題など、宗教にまつわる話題・問題が跡を絶ちません。

あらゆる信仰の自由を受け入れる象徴、霊峰富士の麓、多くの人びとが集まってくることは必然です。世界文化遺産となった富士山、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という言葉にもそれは表されています。

立場・主義主張は異なれど、人々それぞれがより豊かな日々を送るための拠り所として宗教があるはず、ですので、人それぞれの自由な信仰、宗教それぞれの多様性、それぞれの良い所を評価し尊敬しを認め合いながら、仲良く相互発展していって欲しいと上野ガイドは思います。(多様性を認めると言っても、例えばオウム事件に見られるような他者を傷つけたり、テロ行為を行うような宗教・組織はもちろん論外です。)

21世紀へ

  • 2000年代、屈曲していた大石寺三門前の国道469号線が直線になったり、2011年には大石寺バスターミナル南の複雑な交差点も改良されました。
  • 自然風景が豊かで、上野に住みたい、と移住してくる人もちらほらいます。
  • 2010年、「上野の里まつり」と、コンセプトを掲げて実行委員会が発足し、牧野酒造・富士正酒造という、上野の2社の老舗酒蔵が合同で酒蔵開きを初開催。酒蔵をはしごできる、酒蔵めぐりとして、美味しいお酒・グルメ、そして風光明媚な上野を堪能できるイベントとなりました。2014年、5回目を迎えた上野の里まつりでは新たに土井ファームがスポットとして参加し、イベントの可能性を大きく広げました。
  • 2013年6月22日、富士山が世界文化遺産として登録され、富士宮にとって大きなポイントとなりました。
  • 2015年、富士宮市民体育館前の道路西端T字路と(県道414号線との接点)馬見塚の山林が開拓、道路が新設されました。大石寺の寄付によるもので、街道沿いには大石寺関連の灯籠や看板が大きく掲示されています。
  • 2018年春、上野バイパスが着工し2021年に上半分が暫定開通、2023年3月には全線開通し、開通式も行われました。

ひと・こころの時代

21世紀は「ひと・こころの時代」、そんなふうに、上野ガイドは考えています。豊かな日々に向かって、自主的に、民主的に連帯し、よりよい地域を作っていく。こんな時代だからこそ、あらゆる利害を乗り越えて、お互いを尊敬し、尊重しあい、多様性や違いを認めながら、究極の幸せを共に模索し、実現する地域になっていけたらと願っています。

その象徴として、富士上野は、日本の重心で愛を叫び続けたい。

そう宣言します。