■古代
上野には縄文時代(4000年程前)から住民が居たことが千居遺跡(せんごいせき)の発掘により明らかになっており、20棟余の竪穴住居や大規模な配石遺構が見つかっています。また、同遺跡は大規模なストーンサークルがあるのが特徴で、富士信仰の為である説が有力といわれています。
■中世
鎌倉時代後期の武将「南条時光」が地頭としてこの駿河国上野郷を統治管理していました。南条時光は父である南条兵衛七郎と共に熱心な法華経の信者としても有名で、身延山の日蓮を支援しました。日蓮の滅後、日蓮の高弟、六老僧の1人、日興上人が身延山を離れた際に寺領に迎え入れて支援し、大石寺の開基旦那となりました。また、妻の供養の為に自宅を妙蓮寺とし、上条大石寺・下条妙蓮寺として、富士五山に数えられるまでになりました。
■江戸時代
富士の地域は旗本領(旗本采地・知行所)と幕府直轄地(天領・御料)、寺社領が混在していた。この上野では、下条村は旗本松平氏、上条村、精進川村、馬見塚村は領主が色々と交替したようです。
- 下条村:松平采女(うねめ)(形原采女の記録もあり)
- 上条村:松平新七郎・渡辺伴三郎氏・永田勝左衛門が統治。
並びに大石寺の寺社領。 - 馬見塚村:天領から寛政年間(1789~1801)には旗本・岡部竜之助(岡部龍之介の記録もあり)が統治
- 精進川村:天領から天保一四年(1843)に旗本・本郷石見守・沼津藩主・水野出羽守が統治
■明治後
上記の四ヶ村の下条村、上条村、馬見塚村、精進川村は明治時代まで続き、明治22年の町村制施行の際に4村が合併して富士郡上野村が成立しました。上野地域はほぼ、旧上野村全域を指す形です。また、旧4か村の名称が、そのまま町域となり、郵便番号が付番されています。町域の詳細はこちらをご覧下さい。
昭和17年、大宮町と富丘村が合併して富士宮市が誕生しました。
それから13年後の昭和30年(1955)4月1日 に富士宮市と富士郡富士根村と合併。大きく市域を広げました。1950年代は昭和の大合併の最盛期で多くの自治体が統廃合されました。
1年後、昭和31年(1956)09月30日に富士郡芝富村と、庵原郡内房村が合併し、富士郡富原村となりました。
この富原村、ほとんど記憶にも記録にも薄い自治体でした。なぜならば、成立したわずか半年後の昭和32年(1957)03月31日、富士郡富原村と富士郡柚野村が合併して、富士郡芝川町が成立したのでした。最初から一度にやればいいのに、と誰もが思いますが、どの時代も合併や編入は非常にセンシティブな大人の事情があるのです。
昭和33年4月1日、富士郡上野村、北山村、白糸村、上井出村が富士宮市と合併、上野村消滅。白糸村の「白糸」と同じく、地名から「上野」が消えた為、惜しまれる声が多くありました。ちなみに直前まで、上野村と北山村のみの合併構想で、白糸村と上井出村が合併を最終決定したのは、わずか数週間前の3月6日でした。この辺の経緯は別ページにまとめました。
その後、平成の大合併の流れの中で、平成22年(2010)3月23日、富士宮市と富士郡芝川町が合併し、芝川町が消滅。
ここにおいても「芝川」という旧町名が、住所表記からは姿を消した。富士宮市による行政区として、白糸地域、上野地域、芝川地域という呼称にとどまるところがあまりに惜しい。
政令指定都市にでもなれる規模があれば(笑)、富士宮市上野区下条だとか、芝川区上柚野だとか、白糸区半野とかetc…になりそうですが、政令指定都市への道は・・・遠いですね。富士市と合併すればありえそうかなあ・・・とも思いますが、そうすると今度は「富士市大宮区下条」とかにされて、やっぱり上野という表記は消える運命にあるのか?いや、諦めきれないこの頃である。
ちなみに、合併して富士市が政令指定都市なったら、前述のとおり、「富士市大宮区(多分、富士市富士宮区にはならないだろうなあ)」「富士市朝霧区(北部)」「富士市吉原区」「富士市中央区」「富士市港区」「富士市西区(旧富士川)」「富士市芝川区」とか、七区くらいになるのかなあ、とか、色々妄想もやまないのである。
☆参考文献:本ページで利用している地図は
市町村変遷パラパラ地図 様より引用させていただきました。