1952年以前から、上野村では替玉投票など、選挙における不正が、上野村役場で公然と行われていたようです。

1952(昭和27)年5月6日、静岡県の参議院補欠選挙で同県富士郡上野村(現・富士宮市)が組織的な替え玉投票を実施したのですが、これを知った、当時17歳の女子高校生、石川皐月さんが朝日新聞に告発。不正選挙事件が明るみになりました。

これで事件が終息するかに見えましたが、結果としてその一家が村八分にされ、人権侵害として問題になり、日本全国的に上野村は有名になってしまいました。

村内には多くの報道陣、人権擁護団体関係者、行政関係者、弁護士、社会活動家などが訪れ、新聞やラジオを通じて大騒ぎとなりました。

地元関係者への調査の結果、公式には、村民が申し合わせて「村八分にしよう」とした事実は無いという結論になり、上野村から公式な声明も出されました。ただし、自然発生的に、村民が個々に距離を置いたり、敵対心を持って接したり暴言を吐く人があったため、事実上の村八分ともとれるような状態に成った、という弁明がされています。(「敵対心を持った人」というのは、この告発により仲間の村民や身内が選挙違反で摘発されて警察に取り調べのために勾留された事が理由なので、明らかな逆恨みです。)

当事者家族の証言によれば「事件後は、田植え時期にも人手を頼めなくなった」「手伝ってもいいけど、昼は目立つから遅い時間にと言われた」「農機具も貸すなと部落内で申しあわせがあった」というコメントもあり、報道の内容や上野村公式の結論と、当事者の実態は異なっていた可能性は強くあります。

ただ、2つ目の言葉に象徴されるように、当事者を理解し、心のなかで援護している人は実は上野村には多かったのではないかとも想像されます。ただ、不正選挙の当事者が村の有力者や役人など、「強い人たち」であったりしたことから、表立って支援することで自分の立場や仕事等が危うくなってしまうことを恐れたということは十分にあり得ることです。学校などで起こりがちな、いじめっ子グループ、日和見グループの構造にも似ています。

◆詳細はWikipediaに詳しく載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E4%B8%8A%E9%87%8E%E6%9D%91%E6%9D%91%E5%85%AB%E5%88%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

↑リンクがうまく開かない場合は
GoogleやYahooで「静岡県上野村村八分事件」で検索してみてください。Wikiのページが出てくると思います。

その後、徐々に(いわゆる事実上の)村八分は緩和されていきました。石川さんはのちに手記を執筆したり、社会運動団体に参加するなど、積極的に社会参加していったようです。上野村の当時の関係者も、はからずも報道によりマイナスのイメージが広がってしまった為、イメージ回復につとめていき、事件後の選挙の際には、「独立の門出へ 違反のない選挙」という横断幕を上野村選挙管理委員会(上野村選挙粛清委員会?とも。)が作成し掲示した写真がアサヒグラフに掲載されていたのが印象的でした。

富士宮市史下巻には「戦後10年とたたなかった、真の民主主義が未熟で十分定着しない過渡期においての、一つのそれは社会的ゆがみによる事件だったとも言えよう。したがってそれを改善するためには、それなりの勇気を必要とするし、また当然そのための避難をも甘受せねばならないであろう。そうした意味からも、一少女の勇気は高く評価すべきだと考えられる。」と、彼女の行動を評価する言葉が記されています。

公正な上野の未来の一歩を踏み出す

全国から注目されたこの事件が転機となり、上野村の十数名の有志が発起人となり「上野村選挙粛清委員会」が結成され「公明選挙活動」の実現に向けて動き出し、事件のあった年の8月15日には上野小学校にて選挙民大会を開催するに至りました。公正に人材を選ぶ、違反を無くす、立候補の強要や制限はしない、違反防止のために投票所を複数箇所に設けるなど、要綱を掲げました。

その直後、上野が試される事柄が起きました。1952年8月28日、第三次吉田内閣が解散し、10月1日に総選挙となりました。「上野の汚名を返上すべく、違反は1人も出してはならない」と、青年会、婦人会なども声を上げて協力しあい、結果、1人の違反者も出さずに選挙を終えることが出来たことは、非常に意義のある大きな一歩と言えるものでした。

上野村民が試される、試金石となる衆議院選挙は違反者も無く済みました。

しかし、下記に記した、映画のロケの妨害事件と思われる事柄が発生しています。

21世紀に入り、地元上野に取材を敢行する新聞社等もあるようです。東京新聞の2015年1月9日朝刊「覆う空気 ムラ社会の少女 モノ言い続ける」に掲載された記事によれば、そろそろ話してもいいかな、と取材に応じてくれる方もあれば「あの話を蒸し返すのか」と未だに心も口も閉ざしている人もいる様子が記されています。

参考:覆う空気 ムラ社会の少女 モノ言い続ける

村八分 映画

村八分DVD版パッケージ

この事件を題材として、事件の翌年、1953年、昭和28年3月21日に、現代プロダクションの山田典吾社長、近代映画協會の絲屋壽雄社長らのプロデュースのもと、監督今泉善珠・脚本新藤兼人らにより映画化・公開されました。

ロケは上野地区を含む、富士山麓で行われました。(撮影の事情で、シーンによって富士山の方角が全く異なる)ところが、主演の山村聡他の出演者、スタッフ含め約40名が、当事者である上野地区の石川さんの自宅で撮影を行おうとしたところ、区長を初めとする地元民50名余が自宅を取り巻いて撮影の妨害をする、という事件が起き、またまた上野村はニュースとなってしまいました。

その地元民のうちの1人が、石川さんの母の胸ぐらを掴んで「お前がこんな撮影を許可したのか、お前の娘のおかげでうちの身内が臭い飯を食ったんだぞ(意訳)」というような趣旨の暴言を吐き、さらには暴行しようとしたので、さすがにロケ隊や村の青年たちが見かねて引き止められました。その後、警察署員も呼ばれて数名の警戒態勢の中で撮影を行うという異常な光景でのロケとなったようです。(当時の朝日新聞より)

ただ、本当に、そんなに多くの地元民が「本当に、取り巻いて妨害したのかどうか」「そんな暴言があったのかどうか」という点では真偽を確かめる術が難しいところです。いずれにしても、そうした妨害や反対があったからなのか、何がしかの事情で、その後のロケは主に御殿場の印野地区で行われたようで、作中で富士山の風景、角度が変わっているのでロケ地が変わったことが見て取れます。

公開2ヶ月前の1月まで撮影を行っており、クランクアップから公開までの時間が非常に短く「一日も早く世に問いたい」という製作者の意気込み・使命感もまた感じられた作品となりました。最後の方のシーンでは、生徒たちが口々に彼女の行動を評価し、多くの賛同を得るシーンで終演しています。

熱意を感じる作品であると同時に、「村八分をクローズアップしたい」という社会派作品となっており、ロケ風景を見ていた住民からは、そんな事を言ったはずもないようなことが多く含まれていた、と述懐しており、真実とは異なる脚色が為されています。脚本の新藤氏も「この事件をモデルにしているが、実録ではない」と語っています。

副題通り人権問題に対して「どう考えるか」というというテーマに基づいて作られた為、事件の真相を表現するものではない、という点について注意を払って視聴する必要があります。

出演者

香山先生:乙羽信子
本多記者:山村聰(聡)・・・現代ぷろだくしょん設立メンバー
本多和子:日高澄子

吉川満江:中原早苗・・・当事者の高校生役。映画監督深作欣二の妻で、本作が女優デビュー。熱演で高評価を得た。
吉川一郎:藤原釜足・・・当事者の父役
吉川きみ:英百合子・・・当事者の母役

村長:山田巳之助(DVD版パッケージでは佐野村長:東野英治郎となっているが、誤植と想像される。)
山野:菅井一郎
遠藤:御橋公
教頭:殿山泰司・・・近代映画協会設立メンバー
アナウンサー:久保保夫
小使:小笠原章二郎
山口のじいさん:横山運平
村田:武田正憲

スタッフ

監督:今泉善珠
脚本:新藤兼人・・・近代映画協会設立メンバー
撮影:宮島義勇
音楽:伊福部昭
美術:小島基司
録音:安恵重遠
照明:吉田 章
演出指導:吉村公三郎・・・近代映画協会設立メンバー
製作:現代プロダクション(初代代表取締役 山田典吾)
製作:近代映画協會(社長 絲屋壽雄)

配給:北星株式会社
DVD製作:株式会社フジデン
販売元:WORLD BELL Co.,Ltd.