明治に入り、養蚕商人が山梨や長野からやってくるようになった。

この地域の養蚕の第一人者は「高野喜衛右門(たかのきえもん)」で、明治5(1872)年に大宮町に引っ越してきて、その後1875年に養蚕を始めた。

高野喜右衛門は桑の作り方、かいこの飼い方を教えたり、品種改良、消毒法などをいろいろ工夫して努力した。

上野地区は非常に養蚕の取り組みに熱心で、昭和元年頃には、上野は静岡県内でもトップ4圏内に入り、富士地区ではダントツの生産高を誇った。ちなみにトップ6圏内になると、富士根村もランクインしていた。

上野がそこまで伸ばした理由は諸説あるが、水の乏しい地域でも「桑」が育つということが非常に大きな理由の一つと考えられる。富士山の美しい水が豊富な富士宮・・・というイメージと全く逆であるが、山や谷が多いため、水利は古来からの大きな課題であった事がわかる。

なお、養蚕業はその後衰退し、現在では行われていない。